Violinist
東 彩子
Saiko AZUMA
シューマンの生涯は,僅か46年であった。しかも、44歳でライン河に飛び込んだ後は精神病院に送られたことを考えると、41歳で書いた2曲のヴァイオリンとピアノの為のソナタ――シューマン自身の言葉によれば、この1851年は、“神経の発作”に悩まされ続けたという――からの、終焉に向かう歳月に思いを馳せずにはいられない。
1853年は、にもかかわらず、シューマンにとって、あるいは音楽史上にとっても、最も輝かしい友情の年であり、ブラームスとの出会いのエピソード――ヨアヒムの紹介状を持ってやって来た20歳のブラームスが、自作をシューマンの前で弾き始めた時、シューマンはさえぎってクララを呼びに部屋を飛び出したという――は、今なお私どもの胸に、温かなものを涌き出でさせる。
そして、ヴァイオリニストのヨアヒムがデュッセルドルフへ来訪する折に、シューマンは歓迎の曲を弟子のディートリヒも含めて、
3人で共作しようと計画するのだ。ヨアヒムのモットー、Frei Aber Einsam(自由にして孤独)にちなんで作られ、FAEソナタと呼ばれるこの曲は、第一楽章をディートリヒ、第二楽章スケルツォをブラームス、第三楽章インテルメッツォと第四楽章をシューマンが担当した。が後に、シューマンは自作の第三、第四楽章に加え、新たに第一、第二楽章を作曲して、自らの三番目のソナタにしようとした。
未完に終わったこのソナタが、シューマンの没後100年を記念して出版されたその再版の限定本が残されているのを、日本の楽譜屋で手にしたのはいつのことだったか。すでにシューマンには格別の想いを抱いていて、いつの日か必ず弾くことに、心ときめかしたものである。
私が初めてシューマンを勉強したのは20代の初めで、バロックや古典の二重奏ソナタの後、ロマン派の一曲をと師匠に言われて、第二番を選んだ。ひどく演奏効果の悪いシューマンの室内楽曲、ヴァイオリンのひきたたないヴァイオリン曲に、どうしてこんなに魅了されるのか。譜面から起き上がるものに触発されながら、演奏に立ち往生している私に、プロフェッショナルなレッスンというものは常に、文学的なイメージではなく、具体的な方法を示さなければならない、と言っておられた我が師匠が、ふと微笑んで、シューマンの音楽は文語体で書かれたラヴ・レターなのだと。こういう一言が、若い私の心に一陣の風を巻き起こして、永い永い歳月をその音楽にかかわらせたのである。
師亡き後、1977年に私はヴァイオリンとピアノのDUOのコンサート・シリーズを始め、シューマンの3曲のソナタは折々にその時々のピアニストと共に取り上げてきた。とうとうレコーディングという大それた気の重い仕事にまで突入しながら、私はいつもリハーサルを愉しむものである。特に現在のパートナーの藤井一興氏とは。
彼は、第一番と第二番に関しては豊富な経験を持っていたが、第三番は存在すら知らなかったという、その興奮には、我が意を得たりであった。リハーサル中の第三番の楽章間に目を真丸にして、自分はこのソナタが一番好きだ、と少年のように言うその度、私も、と息を弾ませて答える。リハーサルに言葉は無用という哲学の持ち主が、目的にまっすぐ向かわないシューマンの感情の紆余曲折について語り、私も又、シューマンは意識した感情を書きながら、曲には潜在意識内の感情も同時に表れている、と常日頃思っていたことを口にしてみる。まるで表現派だと。むしろ象徴派を思う、と彼は言う。そして、あの時代にすでにこんなことを書いたのだったら、理解されるはずがない、さぞかし孤独だったろう、と私たちはため息をつくのだった。
シューマンを弾くということは、どういうことかというと、次第に閉鎖的になるということである。ひとり部屋でさらっている時はもちろん、リハーサルの時もパートナーとの音のコミュニケーションに耳をこらした後は。
そして、舞台上にそうした濃密な時が降り立つとやっと、シューマンは心の裡を語り始めてくれるように思う。
2004年初秋 東 彩子
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